大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和31年(ネ)1616号 判決 1959年4月14日

控訴人 樋口イト

被控訴人 国

訴訟代理人 星智孝 外四名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は、控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取り消す。控訴人所有の別紙目録(以下全部原判決添付の別紙目録の記載を引用する。)(一)記載の山林と、同(二)記載の官有林との境界は、同(三)記載の線であることを確認する。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求めると申し立て、被控訴代理人は、主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上及び法律上の主張は、次の事項を付け加える外、原判決の記載と同一であるから、これを引用する。

一、控訴代理人は、次のように、訂正付加して述べた。

(一)  原判決には、控訴人主張の請求原因として、「なお右査定処分に関する公文書は、大正十二年九月一日の関東大震火災により焼失したとすれば、公文書の焼失に関する判例によれば、右査定処分は無効と解さざるを得ない。」と記載しているが、控訴人の主張は、「公文書が焼失したものと仮定すれば、仮りに査定処分があつたとしても、国有林野法が規定している、査定期日及び査定終了の通知や、査定図謄本の送付があつたかどうか、証拠上判明しない。しかも右は査定処分の必要事項であるから、これが立証がつかない以上は、適法な査定処分が存在したことは、これを認めるに由がない。」というのであるから、これをそのように訂正する。

(二)  控訴人が、本件山林と官有林との境界は、別紙目録(三)記載の線であると主張することは、原審におけると同様である。右山林をもと控訴人の曽祖父君島亀吉が所有していた当時から、その境界線は「大峰境、沢境」と俗称され、それが今日まで引き継がれているものである。この言葉は俗称ではあるが、いかにも昔から云い伝えられた素朴的な性質を持ち、本件訴訟のため造り出された言葉としては、あまりにも古典性を持つておる。この言葉自体のもつ音調、深淵な意義を把握して真相をつかむべきである。

しかもこの言葉の持つ意義を裏付けるものとして、被控訴人が官有地と主張する地域内には、六個所の炭焼のかまど跡がある。この事実は、いずれも数十年前に、右かまどにおいて、控訴人の先代が自己所有の山林内の立木を伐採して、木炭を製造したことを物語るものに外ならない。換言すれば、それらの地点は、すべて控訴人所有の山林であつたればこそ、同所において立木伐採の上、木炭生産に努力していたものである。

(三)  控訴人は、被控訴人の主張する明治四十年九月十二日本件山林の境界についての査定処分が、事実上実施されたことはこれを争わない。しかしながら、国有林野の境界査定には、(イ)当該官庁において査定期日を定めて、少なくともその期日の十五日前に査定の日時、場所を隣接地所有者に原則として通知しなければならないし、(ロ)右通告は書面を以てこれをなし、通告書の送付を以てしたときは受領証を差出させ、郵便を以てしたときは、配達証明郵便でこれをしなければならない。また(ハ)査定が終つたときは、その旨を隣接地所有者に通知し、かつ査定図の謄本を送付することが、国有林野法(明治三十二年法律第八十五号)に明らかにされているところ、右査定処分については、これらの手続が行われていない。そして控訴人が原審においても主張したように、これら査定日時及び査定終了の通知及び査定書謄本の送達の欠缺は、査定処分の重大かつ明白な暇疵であるから、右査定処分は法律上無効である。

(四)  被控訴人主張(二)の取得時効の抗弁に対し、本件山林については、明治二十三年七月十五日控訴人の先々先代君島亀吉が所有権取得の登記をして以来、歴代の所有者が各自己の所有なる旨の登記をなし、昭和二十八年二月二十四日控訴人がこれを引き継いで登記簿上その所有権を取得したもので、不動産の占有は登記簿上その所有名義を有することにより、これをなし得るものと解すべく、しかも山林は地方により実面積と公簿面積とが、三倍ないし五倍の相違を来すものであることは公知の事実であるから、本件山林が公簿上三丁九反六畝二歩であり、実測は二十町歩あつても、それは怪しむに足らない現実であつて、登記簿上の法律的占有は、その実測面積に及ぶものと見るべく、控訴人は登記簿上所有者として登記されている以上、その実測全面積について占有を有するものである。被控訴人が占有の事実として主張する(1) ないし(4) は、いずれも否認するのみならず、仮りにそれらの事実があつたとしても、無効の査定処分は当該処分の存在を認め得ない筋合であるから、有効の査定処分の存在を前提とする前上の行為は無に等しい。いわんや(5) の主張に至つては、全然虚構であつて、当該行政訴訟は、原告である西川部落が、「係争の国有林及び国有地は明治九年改租の際、誤つて官有林に編入されたが、往古より原告部落の所有に属し、その持山として自由に進退して来たものである。しかるに農商務大臣は原告のなした該山林原野下戻の申請について不許可の処分をしたのは不当である。」として提起したもので、被控訴人主張のように、国有地であることを前提として提起したものではない。しかも和解の内容も、被控訴人の主張と全然異なり、被告国は湯西川の左岸の国有林野を原告に下戻し、湯西川右岸の国有林野に関する原告の訴を取り下げることを骨子とするものであつて(甲第九号証参照)、本件係争地山林を含めて従前どおり国有にしたというような事実は存在しない。右行政訴訟法の沿革によつても明らかなように、本件係争地付近の山林は、元々その部落民のものであつたのを、改租などの際、当時は深山でもあつて所有関係不明のため国有林に編入したものであり、本件係争山林も、君島亀吉の所有のものを、明治四十年東京大林区署において、境界査定処分を強行し、しかも右査定に際しては法規を無視して、手続を履践せず、一方的に国有林であると主張するに至つたものである。

二、被控訴代理人は、右控訴代理人の主張に対し(一)のように述べ、かつ新たに(二)の抗弁を主張した。

(一)  控訴人主張の(二)、(三)の事実を争う。ことに(二)について、控訴人所有の山林と国有林との境界が、「大峰境、沢境」とか言い伝えられて来たとしても、それが直ちに本件山林の境界を示す決定的な根拠となるわけのものではない。また炭焼かまど跡があるから、控訴人所有地だというのは、理由のない独断である。元来本件山林を含む付近一帯の国有林は、交通の極めて不便な山奥にあつたため、明治二十年代までは国において十分の維持管理をすることが困難な状況にあり、いきおい盗伐が行われても、これを摘発しえない実情にあつた。尤も明治三十年以前には、この部落では炭焼をしたことはなく、主としてこれらの山に立ち入り、下駄、桶、建築の用材を伐り出たり、薪を取つたりしているだけであつたが、その後交通がやや開けてから(おそくも明治三十五年以前)、この部落でも所々で炭を焼いたことがあつた。もともと炭を焼くことを知らなかつたこの部落の人々は、みずから炭を焼いたのではなく、他村の者に立木を売つて炭焼をさせたのであるが、その当時部落民のある者は、自己所有山林に隣接する国有林まで自己の所有と称して立木を売却し、炭焼をさせた者もあつた模様で、炭焼かまどの跡らしいものは、単にこの係争山林ばかりでなく、他の国有林のなかにも所々に散見される。従つて本件係争地内に炭焼かまどの跡があるからといつて、本件山林が控訴人の所有を裏付けする何等の理由ともならない。

(二)  本件山林について明治四十年九月十二日東京大林区署の実施した境界査定処分が、かりに手続の遺漏により無効であるとしても、被控訴人は右査定処分があつた明治四十年九月十二日から、別紙目録(三)の境界線で囲まれる部分(ただし、別紙目録(四)で囲まれる控訴人所有山林を除く。)の山林を善意にしてかつ過失なく占有を始め、爾来所有の意思で平穏かつ公然に占有して来たものであるから、同日から起算して大正六年九月十二日民法所定の十年の経過により時効で取得したものである。もし右の占有が悪意または過失によつて始められたとしても、所有の意思で平穏公然に占有を続けて来たものであるから、おそくも昭和二年九月十二日には民法所定の二十年の経過により時効で取得したものであるから、ここに右時効による取得を援用する。そして被控訴人が占有した事実について略述すると、(1) 明治四十年九月十二日被控訴人(当時の東京大林区署)は境界査定処分を行うとともに、これに基いて境界査定簿、境界査定図を作成し、境界標を設置した。(2) ついで被控訴人は、本件係争山林を鬼怒川事業区の第六〇林班い小班(昭和二十五年四月一日から、男鹿川経営区第三六林班い小班となる。)に編入し、国有林として管理経営を始めた。(3) そしてこれがため大正二年二月には、その森林を調査し、施業案を編成したばかりでなく、(4) 営林官署においては、原則として毎年一回係官をして、その担当する国有林の境界を見廻り、主要境界標や、立木など調査する例であるが、本件係争山林の境界を表示するため、明治四十年に設置した「査定番号五〇」の境界標については、大正十一、十三年ないし十五年、昭和二、三年にその所在を確かめたことが記録により明らかである。(5) 一方本件係争山林の所在する西川部落においても、本件係争山林が国有とされており、控訴人所有でないことは、何人も熟知するところである。そのことは、本件係争山林を含めて西川部落にある国有林についてそれが国有林であることを前提として、原告西川部落、被告農林大臣間に行政裁判所明治三十八年第二三〇号国有林及び国有地下戻請求の訴が提起されたことにより明らかである。なお右下戻請求の行政訴訟は、その後昭和二十八年四月二十二日湯西川の左岸は、本件係争山林を含めて、これを従前どおり国有とし、右岸は同日から部落有とする趣旨の和解が成立したので、西川部落においては、本件係争山林が現在国有であり、控訴人の所有でないことは何人も疑をさしはさまないところである。

証拠<省略>

理由

一、控訴人が、栃木県塩谷郡栗山村大字西川四百八十七番地の一所在の山林三町九反六畝二歩を所有し、同村大字西川字赤夕国有林が、これと境を接するものであることは、当事者間に争がない。右両地の境界について、控訴人は別紙目録(三)記載の線、すなわち東側はその東南方(湯西川畔)にある栃大木を基準とした、北方沢に沿いつつ大峰に向い、また西側はその西南方(湯西川畔)にある栗立木を基準とし、北方沢に沿いつつ大峰に向い、更に右大峰伝いにそれぞれ進んで同目録記載の方位、距離による各地点を結ぶ線(これによつて囲まれる地域を以下甲地域と呼ぶ。)であると主張するのに対し、被控訴人は同(四)記載の線、すなわち右区域東南方(湯西川畔)にある栃大木を基準とし、沢に沿うことなく北方間近の峰に上り、上り詰めて反対の側を下り、原告主張の沢に沿つて南方に右湯西川にいたる同目録記載の方向、距離による各地点を結ぶ線(これによつて囲まれる地域を以下乙地域と呼ぶ。)であると主張し、ひつきようするに甲地域から乙地域を徐いた部分(以下丙地域と呼ぶ。)が、控訴人の主張に従えば、控訴人所有の前記四百八十七番地の一の山林中に包含されるのに対し、被控訴人の主張に従えば国有林の一部となる。

二、よつて先ず控訴人主張の線について判断するに、原審証人樋口タカ、君島タケ、当審証人樋口正一、君島定次郎、君島タケの各証言、原審及び当審における控訴人本人の供述並びに原審証人丸山徳太郎の証言によつて真正に成立したと認める甲第七号証には、いずれも、右両地の境界は、昭和二十三年控訴人の先々先代君島亀吉が、本件山林を所有した当時から「大峯境、沢境」といわれていた旨の証言、供述及び記載があり、右「大峯境、沢境」なる境界線は、原審証人熊倉三郎の証言及びこれによつて真正に成立したと認める甲第五号証並びにその成立に争のない甲第八号証によれば、控訴人主張の別紙目録記載(三)の線に当り、その北方において栃木県塩谷郡三依村と境を接するものであることを認めることができる。しかしながら、その成立に争のない甲第三、四号証によれば、宇都宮地方法務局今市出張所備付の土地台帳附属地図及び栗山村役場保管の山岳地図のいずれにも、本件で問題となつている栗山村大字西川四百八十七番の土地は、同郡三依村と境を接せず、両地の間には他人の土地が介在し、また右四百八十七番の東側には、中ノ沢という沢があるが、同地の東側境界線は同沢にも沿つていないように表示されていることが認められ、この事実と後に四において認定する事実とを総合すれば、右四百八十七番と同村字赤夕国有林との境界が「大峯境、沢境」なる前記各証言、供述、記載はいずれも当裁判所の信用し得ないところであつて、他に両地の境界が別紙目録(三)記載の線であるとの事実は、これを認めるに足りる証拠はない。

三、次いで被控訴人主張の線について判断するに、被控訴人はその主張にかかる別紙目録(四)記載の線は、明治四十年九月十二日東京大林区署が国有林野法に基いて境界査定処分をなしたものである旨主張し、当時被控訴人主張のような境界査定事実上の作業がなされたことは、控訴人もこれを争わないところであるから、もし右境界査定の処分が適法になされていたならば、控訴人所有の栗山村西川四百八十七番の一の本件山林と、同村大字西川字赤夕の国有林との境界は、右査定により、被控訴人主張の前記(四)の線に確定したものといわなければならない。

当時施行されていた国有林野法(明治三十二年法律第八十五号)によれば、国有林野の境界査定は、当該官庁においてあらかじめ期日を定め、隣接地所有者に書面を以てこれを通告してその立会を求め施行することを要し、また境界査定が終つたときは、当該官庁は直ちに隣地所有者に通告しなければならないこととなつているところ(控訴代理人は、その外に査定が終つたときは、隣接地所有者に査定図の謄本を送付することを要するように主張するが、同法施行規則第五条によれば、査定図の謄本は所轄小林区署に送付すべき旨のみが定められている。)

原審証人須藤武治の証言(第一、二回)によれば、右国有林野境界査定に関する記録の原本全部を保管していた東京大林区署(後に前橋営林局となる。)は、大正十二年九月の関東大震火災により焼失し、右記録も当時全部焼失したものであることが認められる。しかしながら右証人須藤武治の証言によれば、明治四十年当時一般に行われた国有林野境界査定手続の実際は、大林区署長から境界査定の命令を受けた調査官吏は、大林区署備付の土地地積台帳並びに税務署及び町村役場備付の土地台帳その他の公簿により、当該土地の沿革、地形等を調査した上、現地について、これら資料調査の結果と対比調査した上、期日を定め、隣接地所有者にこれを通知して立会を求める。右期日の通知は配達証明郵便に付するか、又は通知書を信用ある人夫を使用し、あるいは調査官吏がみずから本人に交付してすることもあるが、隣接地所有者からは必ず受領書を徴し、一件記録に編綴する。人夫を使用した場合、期日に隣接地所有者が立会のため出頭しないときは、査定を施行しない。査定期日には隣接地所有者に調査した資料を示し、その意見を聞き、合意によつて定まつたところへ境界査定標を打つ、順次このように境界点を定め全部終了したとき、これを境界査定簿に記入し、境界査定標の方位、距離を測量して境界査定図を作成し、査定簿の付図とする。調査官吏から一件記録の送付を受けた大林区署長は、合議機関をして更に審査せしめた上、(通知受領書の有無も当然に調査される。)査定の裁決をする。査定が終つた場合には、査定簿と付図の査定図の謄本を所轄小林区署へ送付し、隣接地所有者には配達証明郵便で査定が終つた旨を通知する。以上がその大要であるが、本件においては先にも認定したように、一件記録はその後全部焼失し、当時の本件山林の所有者であつた君島亀吉に対し、これら立会期日の通知及び査定終了の通知がなされた事実は、その受領書又は配達報告書によつては、証明されていない。しかしながらこれらの事実は、必ずしも右受領書又は配達報告書によつてのみ、これを証明することを要するものではないと解せられるところ、その成立に争のない乙第一、二号証の各一、二、乙第九号証の一ないし十四、及び乙第十三号ないし第十七号証によれば、本件山林の境界については、当該調査官吏の調査の結果、査定番号(50)から(87)までの境界査定標が打たれ、境界査定簿(乙第一号証の一、二)及び境界査定図(乙第二号証の一、二)が作成され、なお本件の赤夕国有林についてではないが、当時同一村内にある数カ所の国有林について行われた国有林野の境界査定に関する境界査定立会通告書(明治四十年七月及び八月)及び、境界査定通告書(明治四十二年一月)の多数が現存するのに鑑みれば、本件においても、当時の所有者君島亀吉に対するこれらの通知は、それぞれ適法に行われたものと推認するを相当とする。

してみれば本件山林及び国有林の境界は、右境界査定の処分により、被控訴人の主張する別紙目録(四)記載の線と確定したものといわなければならない。

四、そればかりでなく、原審及び当審における証人君島定橘、阿部慶次郎、赤羽四吉、斎藤菊次郎は、いずれも控訴人所有の本件山林と国有林との境界は、「小峰境」又は「小そね境」である旨を証言しており、同証言、原審及び当審における現場検証の結果並びに甲第五号証及び甲第八号証を総合すれば、右「小峰境」または「小そね境」は、被控訴人主張の別紙目録(四)の線に当ることが認められる。

宇都宮地方法務局今市出張所備付の土地台帳付属地図(甲第三号証)及び栗山村役場保管の山岳地図(甲第四号証)のいずれにも、控訴人所有の本件山林と栗山村及び三依村との境界線との間には、他人の土地が介在するように表示されているものであることは、先に二において認定したところであり、原審及び当審における現場の検証の結果によれば、一に記載した丙地域(控訴人の主張する境界線によつて囲まれる甲地域から、被控訴人の主張する境界線によつて囲まれる乙地域を除外した地域)の林相は、その東西の両側において、互に隣接する国有林の林相とほぼ相似するに対し、丙地域の林相と乙地域の林相とは可成り相違することが認められ、また、その成立に争のない甲第一号証並びに原審証人熊倉三郎の証言及び甲第五号証を総合すると、本件山林の公簿上の面積は三町九反六畝二歩であるところ、甲地域の面積は大体二十町歩となるのに対し、乙地域の面積は大略その四分の一となることが認められる。

これら認定にかかる諸般の事実と前記証言及び先に三において詳細に認定した境界査定の事実上の手続の実情とを総合すれば、被控訴人主張の(四)の線は、ひとり境界査定処分によつて確定された線であるばかりでなく、従来から存在した両地の境界線そのものを、ありのままに確認したものであつて、査定処分の効力の有無にかかわらず、控訴人所有の本件山林と国有林との境界は、右(三)の線であるものと判定するを相当とする。

控訴人は、丙地域内に炭焼がまの跡が数カ所存することを指摘し、右は数十年前に、控訴人の前主が自己の所有山林内の立木を伐採の上炭焼をなしたもので、丙地域が控訴人の所有山林の範囲内であることを証明するものである旨を主張し、当審における現場の検証の結果によれば、丙地域内には、東側中沢沿いに二カ所、西側から沢沿いに三カ所、年代を経た炭焼がまの跡を認めることができるが(中沢沿いには更に一カ所のかま跡があるが、それは中沢の東であつて、丙地域の外の国有林内である。)、当審証人阿部慶次郎、赤羽四吉、斎藤菊次郎の各証言及びその成立に争のない乙第三号証を総合すれば、大正年間同村内に今市小林区署の出先機関である保護区(現在の担当区)が設けられるまで、同地方には、国有林の立木の盗伐がしばしば行われ、国有林内に炭焼がまを設けて炭を焼く者があり、現に本件係争地以外の国有林のなかにも炭焼がまの跡が数カ所あることが認められるから、右炭焼がまの跡があることのみを以つて先に挙げた数々の証拠を排して、前記認定を覆えすことはできない。

五、更に被控訴人は明治四十年九月本件山林と国有林について境界査定の作業を行い、境界査定簿(乙第一号証の一、二)及び境界査定図(乙第二号証の一、二)を作成し、境界標を設定し、丙地域が国有地であることを表明したことは、前段において認定したところであるが、その成立に争のない乙第三号証、乙第四号証の一、二、三の各一、二、乙第五号証、乙第六、七号証の各一、二及び弁論の全趣旨を総合すれば、被控訴人は爾後直ちに丙地域をも国有林とし、東京大林区今市小林区鬼怒川事業区に編入し、これが管轄経営に当らしめ、大正二年には該森林を調査し、施業基案を編成して、これを経営するとともに、その後現在にいたるまで毎年担当係官をしてこれを立ち廻らしめ、先に設置した標柱等の保存状態及び盗伐の有無等について監視をなさしめて来たものであることを認めることができるから、被控訴人は、右明治四十年以来すでに四十数年にわたり、右丙地域を、所有の意思を以て平穏かつ公然に占有して来たものというべく、よし以上二、三、四における判定に何等かの誤があり、丙地域が明治四十年九月十二日の査定以後なお控訴人の所有であつたとしても、被控訴人はその後二十年を経過した昭和二年九年十二日には、右土地の所有権を時効によつて取得したものというべく、従つて別紙目録(四)の線を両地の境界なりとする被控訴人の主張は、この点からも是認せられるものといわなければならない。

控訴人は、控訴人も不動産登記簿上所有名義人となることにより、丙地域にも占有しているばかりでなく、被控訴人の前述の各行為は無効の処分を前提とするものであるから無に等しく、かかる行為によつて取得時効は完成しないと主張するが、不動産登記簿上、所有名義人として登記されている事実だけを以ては、これを占有するものとはなし難く、また占有は事実上の行為と占有の意思とによつて成立するものであるから、被控訴人の前述の行為が無効の処分に基くものであるかどうかは、取得時効の成否について何等の影響をも及ぼすものではない。

六、以上の理由により、控訴人所有の本件山林と被控訴人の本件国有林との境界は、別紙目録(四)記載の線であるとした原判決は相当であるから、本件控訴を棄却し、控訴費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決した。

(裁判官 内田護文 原増司 入山実)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例